羽生くんと震災と私たち

 

 

こんにちは。年が明けて、あわただしく過ごしているうちに、もう、2月も半ばを過ぎましたね。毎年、この時期になると、「ある出来事」を思い出す日が近づいているのを感じます。

数日前、大きな地震があり、一足早く、その「出来事」がフラッシュバックして、取り乱してしまいました。

今回は、東日本大震災のことと、その時期に私を元気づけてくれた、あるフィギュアスケーターのことを、ブログに残したいと思います。

 

2007年の冬、私の住む町で、フィギュアスケートNHK杯が行われた時のことです。中学生のころから、フィギュアスケートが大好きだった私は、迷うことなく、その大会を見に行き、素晴らしい演技の数々を堪能していました。

大会のエキジビションオープニングの時、地元のスケートクラブに所属する子供たちが、フラッグを携えて、グループ演技を行いました。

その中に一人だけ、やけにスケートがうまい男の子が…!

「あれ?あの子だれだろう?スピードも体の動きも、他の子たちと明らかに違う…」

そう思って、その男の子を目で追っていたら、後ろの席から「ユズルくーん!」という声。

そう、そのフラッグボーイは後に二度のオリンピック金メダリストになる、羽生結弦選手だったのです。

「ユズルくんっていうのか、この子はすごいな。いつか、世界で活躍する選手になるぞ」

期待に胸が高鳴り、なんとなく、すごい選手をみつけて得しちゃったような気がしたNHK杯からすぐの、全日本ジュニア選手権で、彼はいきなり3位に入り、めきめき、頭角を現すようになりました。

 毎年、羽生くんの演技を見続けるのが楽しみで、彼の真の強さを感じさせるコメントと共に、羽生くんは、フィギュアスケート界でますます、輝き始めます。

 

そんな時に、あの東日本大震災

これを書くと、大体、どこに住んでいるか、察しが付くと思いますが、私の住む県も、津波被害で、言葉を失う、惨状が繰り広げられました。

私は仕事先で、被災。大きなざるの中で振るわれる小麦粉の粉になったような、長く、恐ろしい揺れの中、「嘘でしょう?嘘でしょう?」そのことしか頭になく、やっとの思いで、外に出ると、向かいのガラス張りの窓に見る見るうちに亀裂が入り、職員たちが、ガムテープで補強しているのが見えました。

 「沿岸部で津波があったみたいだ…」遠くで、誰かがつぶやく声。何が起きているのかわからないけど、「町が死んだようだ」と感じたのを覚えています。

それから、しばらく、「ひたすら耐える」日々が続きました。何に耐えるのか。ガスも、水道も、電気も止まってしまった町で、いつも通り、仕事にでかけなければいけない日々。

仕事が終わって帰る時、明かりが灯らない真っ暗な街、いつまで、続くかわからない被災の日々。でも、私たちは、「辛い」なんて、言うことができなかった。津波で、家族を亡くした人々、家が壊された人々、放射能で、住み慣れた街を離れなければいけなかった人々。自分たちはそういう人たちに比べて、辛いなんて言っちゃいけないんだ。そう思った私たちは、明かりが灯らぬ夕方を、黙って臨時のバスに乗って、黙って、帰る日々を繰り返しました。

 

羽生くんは高校一年生の時に、地元のアイスリンクで被災。避難所で過ごしたこともあり、当初、練習環境が壊れたことで、思うように練習できず、リンクを借りるためにあちこちを転々としていたと聞きます。羽生くんは、震災当日空を見上げ、真っ暗な闇の中、たくさんの星が瞬いていたことが、強く印象に残っていたと言います。

確かに、震災のあの時、星はきれいに輝いていました。地下鉄がとまり、歩いて家に帰る途中見た空。刻一刻と、沿岸部の遺体の数が増えていくラジオを聴きながら、窓から見上げた、夜空。不安で悲しい地上を、月も、星も、美しく、照らし続けていました。

羽生くんは、その時期、テレビのインタビューでよく、「被災地の方々のために」と、強いまなざしで言ってくれていました。彼自身も、不安で大変だっただろうに、彼はいつも、被災地の人々のことを考えてくれていたのです。そのことには、ただただ感謝しかありません。そんな日々の中、2012年3月の世界選手権、羽生くんは、3位に輝きます。

 

フリーの演技「ロミオとジュリエット」は言葉になりません。精一杯、緊張感の中挑み続ける羽生くん。その姿を見ていて「こんなに若い子が、こんなに、頑張っている。自分がめげてどうする…!」感覚がなくなりそうな日々だった私。羽生くんは、演技で背中を押してくれました。

 

羽生くんが、平昌オリンピックで、二連覇を決めたとき、エキジヴィションで「ノッテステラータ」を演じました。震災のころ、飛び立つ鳥をイメージし、「白鳥の湖」(ホワイトレジェンド)で臨んだ羽生くん。エンディングで、さらに高みを目指す鳥を表現していたけど、同じ白鳥をテーマにしたこのプログラムは、みんなを優しく包み込むようで、暗い心に明かりが灯るようで、あの時の悲しみを浄化させてくれるような、そんな演技でした。

 

 

さらに時がたち、羽生くんが、わが町で行われた「Fantasy on Ice」に出演することが決まった時、私と母は、「どうする…?」と顔を見合わせました。もちろん、羽生くんの演技を見たい、そう思いながら、開催場所を聞いて、少し、躊躇いが生まれたのです。開催場所は利府町のグランディ21。その場所は、震災当時、遺体安置所となっていた場所でした。

少し考えた後、「行こう! 羽生くんの演技をみよう!」そう決断したのは、今から考えると、震災当時、ゆっくりと、地元での弔いの時間が持てなかった私たちにとって、手を合わせつつ、祈りを捧げつつ、羽生くんの演技に歓声を贈りたかったから。そのことを、私たちなりの追悼にしよう、と決意しました。

その時の演技が、伝説の「マスカレイド」です。

演技冒頭、羽生くんから、みなぎる闘志を感じました。「羽生くんも緊張している」そう思った後、彼は、エネルギーたっぷりに演じ切りました。最高の演技、でも思うのです。彼は、一人で滑っていたのではなかったかもしれないと。あの時、あの会場に眠る、魂を明るい方向へ導いてくれるために、力いっぱいの演技を披露してくれたのではないかって。会場は、拍手喝さいとすすり泣きが混ざって、大盛況。「私、この会場にいて、良かった。羽生くん、羽生くんの思い、“みんな”に届いたよ。私も、もう一歩踏み出せそう。」泣きながら、私は、羽生くんに「ありがとう!」って叫び続けました。

 

羽生くんは、2022年に、戦いの場をアマチュア大会から、プロの世界へと移しました。様々な試み、アイスショーで、私たちに驚きと、幸せを運び続けてくれています。

競技生活の中で、辛いこともたくさん経験してきたと思いますが、羽生くんは前を向き、誰も成し遂げなかった夢を次々に現実のものへと昇華させていっているのだと思います。そういう羽生くんを見ていると、いつも、元気づけられて、私も前を向こうという気持ちが芽生えてきます。

 

この暗い世の中、閉塞感を感じる日々に、それでも、光を信じさせてくれる。羽生くんは私たちにとってそういう存在のように思えます。その姿を応援することで、私も、心に明かりを灯し続けたい。今はそのように思っています。