氷上の「問題児」ジェレミー・アボットが残したもの

 私がその選手の演技に注目し始めたのは、2007年の仙台で行われたフィギュアスケートNHK杯からだった。彼が滑り始めると、それまでの緊張感漂う会場の空気は一変し、まるで、ミュージカルやお芝居の舞台を見ているみたいな印象を味わえた。スケーティングがなめらかで、あっという間に時間が過ぎてしまう、そんな演技を披露する彼は、とても美しかった。彼の名は、ジェレミー・アボット。4度の全米選手権を制したアメリカのフィギュアスケート選手だ。

ロックなテイストの演技も、クラシカルな雰囲気の演技も、彼はその時のフィーリングで難なくものにしてしまう。アーティストの資質に恵まれていることは、誰の目にも明らかだった。そんな彼が1994年世界選手権女王 佐藤有香さんの弟子になったのは、2009-2010シーズンからだったと思う。パンにバターを塗るような滑らかなスケーティングに定評のあった有香さん。彼女に認められたスケーターに、自然に期待が高まった。その年のグランプリシリーズ、私は彼の意外な一面を目にすることになる。とある試合、演技が終わり、キスアンドクライで採点を待つ彼。なんと、急にカメラに向かって「あっかんべー」をしはじめた。「今の何?」 今まで、表情で貴公子のように滑っていたのに…どうも、彼には、なかなかクレイジーな一面があるのだということに気が付くのに、時間はかからなかった。その後、ジェレミーツイッターに行ってみると、まあ、びっくり。相当やんちゃなキャラクターではありませんか。気に入らないことがあると、「Fワード」の言葉が頻繁に飛び交い、スケーター同士ツイッター上で喧嘩するし、コーチの有香さんから、一時、パソコンを取り上げられるほど、リアルな彼の行動は「問題児」の一面を見せていた。けれども、表情にひとたび登場すると、あら不思議。彼は氷上で何にでもなれた。ビートルズのナンバーではロックスターに、クラシカルなナンバーでは美の化身に。天使のような顔を見せたかと思えば、悪魔のような邪悪さも見せる。彼は、どこまでも「アーティスト」だった。

もちろん、彼が評価されていたのは表現だけではなかったと思う。流れるようなスケーティングに加えジャンプでも、彼はエッジエラーのない正確なジャンプを飛べる選手だった。

 ジェレミーのベストパフォーマンスといえるプログラムは、2011-2012シリーズと、2013-2014シリーズで披露した、佐藤有香さんとの共作、「エクソジェネシス交響曲 第3部」だ。

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 助走の少ない入りのジャンプ、降りた後の繋ぎ、上体を音楽の盛り上がりとともに激しく動かしながら、足元は水が流れていくように、美しく滑っている。このプログラム、この音楽は、ジェレミーのためにあるのではないかと多くの人に思わせたと言っても過言ではないだろう。彼は曲の全てを支配し、曲と一体化していた。

 2017年、彼は皮膚がんであることをインスタグラムで公表した。いつも、決して、弱音を吐かないジェレミー。病のことも、まるで、何気ない世間話のようにさらっと告げた。いつもそうだったのだ。ふざけながら、問題児のようにふるまいながら、彼は、人を不安にさせることも、くよくよしたことも決して口にしなかった。強気な言葉で自分を奮い立たせて氷上に立っていた。その年のJapan Openで披露してくれた「マイウェイ」。手術を控えていたことを感じさせないほど、彼はすがすがしい、優しい表情で最後まで滑ってくれた。氷の上から、客席とコネクトするのを慈しんでいるようなスケーティングは、いまでも忘れられない。

 

  彼は、現役時代、実力が評価されながらも、世界選手権でのメダルを手にすることはなかった。しかし、今でも、エキソジェネシスをプログラムに選ぶ若手の選手が後を絶たないのは、ジェレミー・アボットのあの演技にインスパイアされている選手が多いからだと思う。若手の選手達を見ていると、ジェレミーのプログラムに影響を受けたのでは、と思う子たちをたびたび見かける。ジェレミーのあの美しいスケーティングは、間違いなく、フィギュアスケートの歴史の1ページに刻み込まれているし、後に続くスケーター達の心にも、様々な色を残してくれていると感じる。

現在は、アメリカでコーチとして活躍しているジェレミーツイッター投稿の頻度は減ってしまったけど、時々、最初にびっくりさせられた「あっかんべー」みたいな、ファンキーなジェレミーを期待してしまう自分がいたりする。